日本での「ギャラリー」の歴史

日本での「画廊・ギャラリー」の歴史は、1910年前後までさかのぼることができ、高村光太郎が「ヒウザン会とパンの会」という作品で、1910(明治43)年ごろ、神田小川町に「琅玕洞(ろうかんどう)」というギャラリーを開設したと記されています

家賃は三十円位、緑色の鮮かな壁紙を貼り、洋画や彫刻や工芸品を陳列したのであるが、一種の権威を持って、陳列品は総て私の見識によって充分に吟味したもののみであった。
店番は私の弟に任し切りであったが、店で一番よく売れたのは、当時の文壇、画壇諸名家の短冊で、一枚一円で飛ぶような売れ行きであった。これは総て私たちの飲み代となった。
私はこの琅玕洞で気に入った画家の個展を屡(しばしば)開催した。(勿論手数料も会場費も取らず、売り上げの総ては作家に進呈した。)中でも評判のよかったのは岸田劉生、柳敬助、正宗得三郎、津田青楓諸氏の個展であった。
ヒウザン会とパンの会」より

現存する日本最古のギャラリーは、1919(大正8)年の12月にオープンした、銀座8丁目にある「資生堂ギャラリー」とされ、現在でも銀座は、歴史ある画廊が集まる場所となっています。

主に絵画の展示や販売を行う場所として開設された「ギャラリー」は、時間と共にその形態を多様化させ、絵画に限らず、写真、彫刻、書画、骨董、クラフト系、商業的な商品発表の場、さらにイベントスペースなど、美術や芸術作品展示に限定せず、さまざまな作品や表現の発表、そして、作る人と見る人とをつなぐコミュニケーションの場として活用されています。

貸しギャラリー「だから」できること

ブロードバンド環境の普及にともない、写真や動画、音声の共有や閲覧がとても簡単にできるようになりました。FlickrやYouTubeといったWebサービスも無料で使えますし、Webサイトを開設するのに必要な技術や知識も、以前とは比べものにならないほど、ハードルの低いものとなりました。Webを介せば、世界中の人々に自らの作品やアイデアを発表するのに、従来ほどの手間も費用も掛かりません。自分のWebサイトやFacebookページを、すでに活用している人も多いでしょう。Webが表現手法そのものになっている作品も多く発表されています。

Webで手軽に作品を紹介できるがゆえに、作品を目の当たりにでき、自らの手で触れられる距離で鑑賞できる場として、ギャラリーの価値は、以前に比べて高まっているとも言えます。平面の画面で視覚と聴覚だけで作品に接したときの印象と、同じ空間で実際のサイズで作品を鑑賞するときとでは、得られる情報量に各段の開きがあるのは、誰しも納得できることでしょう。

作品を作る側・発表する側にとっても、ギャラリーでの展示は、鑑賞者が抱く作品に対する言語化できない声に耳を傾けたり、作品への接したときの挙動一つ一つを知ることができる場所になります。そのような、リアルな作品鑑賞スペースでの体験は、ギャラリーだからできることの一つに数えることができます。

昔ながらのギャラリーは、数を減らしつつありますが、都内を中心に、新しいレンタルギャラリーも誕生し、各地でさまざまなジャンルの展示が日々行われています。リアルな発表の場を求める人たちにとって、選択肢は増えています。貸しギャラリーはそのなかでも、もっとも手軽な選択肢の一つ。直接作品と接してもらえる場所を通じて、新たな創作アイデアやヒントが見つけられるかもしれません。